体育会男が高値で売れる理由

体育会しかだめかというとそういう訳ではない。要はその男の子にわかりやすい資本主義的価値があればよい。資本主義的価値の中でとりわけわかりやすいものが体育会という人種という訳だ。

価値というのは一朝一夕に身につくものではない。特に、高い価値や多くの人が欲しがる価値は、簡単に手に入らない。簡単に手に入らないから価値が高いとも言える。

体育会が価値と言われるのは、彼らがひとつのスポーツを10年あるいはそれ以上、しかも1日のかなりの時間をその練習に、来る日も来る日も、それこそ毎日必ず費やしてきている。

ピアノでも絵画でも小説でも、とにかく、そこに大量な時間とエネルギーを注入してきた費やしてきたというストーリーと体験に価値がある。

それほどに、ひとつのことに莫大な時間とエネルギーを投じることで、彼らはスキルだけでなく、人柄、考え方、肉体も鍛えられ洗練されてきている。それらを全てひっくるめたものが価値、資本主義的価値である。

資本主義的価値を意識し生活している賢い子は、現時点ではまだ少ないが、既に多くの人が「どうしても必要なもの」ということには気づいている。「自分探し」「自分磨き」といったワードが、随分前から特に10代20代の若者の間で用いられているのがその証拠である。彼らのいう「自分探し」や「自分磨き」というのがまさに自分の価値を探し磨くという意味なのである。

しかし価値というのは探すものではないということに気づいている人は極めて少ない。価値というのは高い専門性である。ひとつのことに多大な時間とエネルギーを投入した結果に得られる知識や能力やスキルやライフスタイル、肉体、それらを全部ひっくるめたものが価値である。

なので、簡単に得られる価値は価値ではない。簡単に得られる価値で

他者を差別化するのは難しい。理由は、簡単ということは「誰でもできる」ことになるため、誰でも弄せずして手に入れられるものに、人は高い金を払おうなどとは思わないからである。

王貞治の金言を紹介しておく。

結果の出ない努力は努力とは言わない。