キミが一向に稼げない理由

あなたが何故稼げないか。行動しないからである。

近年、出版される自己啓発本に必ず書かれるテーマがこれ。「行動しない」だから「何も手に入らない」という論理だ。当たり前である。行動しなければ1円だって手にはいらない。

それでは何故行動しないか。

ひとつは、失敗を恐れているからである。失敗することで他人に嘲笑されたり馬鹿にされるのを恐れる。そして自分自身に失望することを恐れるという、全く持って不経済な真似を平気でする、だから稼げない。

もうひとつは、行動の仕方がわからないと思っているからである。これこそがゆとり教育の弊害。自分で考え判断し行動できる子供をどんどん減らしてしまった。その結果、資本主義の貧困層をどんどん増やすのに貢献した。貧困層というのは凍りついている人たちである。どうしたら良いのか自分で決められず、途方に暮れているだけ。そうしているうちに時間だけは確実に過ぎていく。

逆に、若くして稼ぎに稼いでいる人というのは、どんどん行動している。99の失敗をして1の成功を掴み取るという成功の絶対法則を知っているのだ。最初から大ヒットビジネスを探り当てるなんてできるはずがないだろう。

高額報酬を得ている者の共通点

何も知らない多くの人は、医者の給料がとんでもなく高いと思っているかもしれないが、それは飛んだ誤解である。医者の平均時給はたった1万。恐ろしいのはこの額は30年以上変わってないということだ。医師30年目の先生が医者になったばかりの頃、既に医者の時給は1万円だったそうである。

このことが、極めて異常であるのに、ほとんどの医者が異常と思わないのは、中途半端に金持ちだからである。富裕層ではないが生活に困るレベルじゃない。

某大御所芸能人の時給は数千万だというから、医者の給料なんて全然、大したことない。金目当てで医者になろうと思うくらいなら指原莉乃を目指す方がよほど賢明である。

一方、東京の娼年の1時間は10万以上である。医者の10倍。山口君が28万円、奥村君が30万円超、彼らに比べれば、医者ももはやコモディティである。

飛び抜けて高い報酬を得ている者には共通点がある。それが何かわかるだろうか。プロ野球選手、格闘家、歌手、ピアニスト、芸術家、お笑い芸人、ユーチューバー、そして娼年

彼らの絶対数は医者より圧倒的に少ない。そして何と言っても、顧客が熱狂する点が違う。ここはとても重要な違いである。

医者に熱狂なんか誰もしないだろう。

体育会男が高値で売れる理由

体育会しかだめかというとそういう訳ではない。要はその男の子にわかりやすい資本主義的価値があればよい。資本主義的価値の中でとりわけわかりやすいものが体育会という人種という訳だ。

価値というのは一朝一夕に身につくものではない。特に、高い価値や多くの人が欲しがる価値は、簡単に手に入らない。簡単に手に入らないから価値が高いとも言える。

体育会が価値と言われるのは、彼らがひとつのスポーツを10年あるいはそれ以上、しかも1日のかなりの時間をその練習に、来る日も来る日も、それこそ毎日必ず費やしてきている。

ピアノでも絵画でも小説でも、とにかく、そこに大量な時間とエネルギーを注入してきた費やしてきたというストーリーと体験に価値がある。

それほどに、ひとつのことに莫大な時間とエネルギーを投じることで、彼らはスキルだけでなく、人柄、考え方、肉体も鍛えられ洗練されてきている。それらを全てひっくるめたものが価値、資本主義的価値である。

資本主義的価値を意識し生活している賢い子は、現時点ではまだ少ないが、既に多くの人が「どうしても必要なもの」ということには気づいている。「自分探し」「自分磨き」といったワードが、随分前から特に10代20代の若者の間で用いられているのがその証拠である。彼らのいう「自分探し」や「自分磨き」というのがまさに自分の価値を探し磨くという意味なのである。

しかし価値というのは探すものではないということに気づいている人は極めて少ない。価値というのは高い専門性である。ひとつのことに多大な時間とエネルギーを投入した結果に得られる知識や能力やスキルやライフスタイル、肉体、それらを全部ひっくるめたものが価値である。

なので、簡単に得られる価値は価値ではない。簡単に得られる価値で

他者を差別化するのは難しい。理由は、簡単ということは「誰でもできる」ことになるため、誰でも弄せずして手に入れられるものに、人は高い金を払おうなどとは思わないからである。

王貞治の金言を紹介しておく。

結果の出ない努力は努力とは言わない。

増加する「息子が欲しい」というリクエスト

山口君が現役の頃から、富裕層の間では「息子が欲しい」というリクエストが急速に増え始め、いまだ天井が見えない状態である。彼ら富裕層が実子を育てていた頃と令和の今とでは、父子関係のトレンドがずいぶん様変わりしたことが理由のひとつになっている。

昔父親は一家の主人、厳格だった。亭主関白という死語があるくらいだ。

しかし令和の今は全然違う。友達みたいな親子、友だちみたいな息子がトレンドになった。

実は山口君。女性の客より、この父親志願の富裕層に絶大な支持を得ていた。元々「異常レヴェルのパパっ子」を自画自賛自称する山口君は、どんなパパの息子にも七変化できると揺るぎない自信を持っていた。

バブル全盛期に大学時代を駆け抜け、実子の子育てを終わらせ、一息ついて50代となった世代の富裕層が「もう一度」マグマのように噴出してきた遊び心を持て余し、行き着いたのが「息子との新しい関係」である。

山口君はひとりの父親から年約3000万円から5000万円の報酬を得ていた。芸能人の報酬からすればゴミみたいな数字だが、山口君が他にたくさんの事業をしていることを考慮すると、破格の報酬だったと私は評価している。

彼は顧客のニーズに合わせ、さまざまな息子を演じてきた。彼が演じる全ての息子に共通したテーマは、父親と一緒に何かをがんばることで生まれるであろう「新しい関係」を常に模索していたことである。快感にうるさい山口君ならではの仕事っぷりだ。

山口君引退後の今、3000万とか5000万という金額を「息子」として富裕層から引っ張ってこれる男の子は、奥村君と中村君くらいしか思いつかない。1000万円クラスならごろごろいるが。

なので、これから東京の娼年を目指す男の子は、ぜひ、息子になるスキルを身に付けると良い。そうすればひとり顧客を抱えるだけで、高校生大学生でも年1000万は安泰である。

令和のトレンド 賞味期限3ヶ月の恋愛

男女の出会いのワクワクが持続するのは最初3ヶ月とよく言われる。俗に言う惚けの時期だ。それを過ぎると誰でも、だんだん正気に戻ってきて、あれ、私、何してんだろ?ってことになる。目の前の男が急に色褪せてくるのだ。

よくある話である。そしてそこからは空虚な時間がしばらく続き、結局別れる。全行程約半年というところだろうか。

本当によくある話である。

25歳にして「付き合った彼氏の数20人」と答える女、そして男はイマドキ全然珍しくない。これまで彼氏彼女がいない空白の時間が無いと公言する子も珍しくない。

よくある話なので驚きもしない。

東京ラブストーリーを代表とするバブル期を知る今の40代50代に言わせたら、そんなの恋愛じゃ無い、恋愛と呼ばない認めない、などと叱られるだろうが大きなお世話である。恋愛の美味しい部分だけを美味しく戴いて何が悪いのだ。メロンは果肉をほんの少し食すのが美味なのであって、あのぶ厚い皮まで食えと言うのか。と私はお返しするようにしている。イマドキ何年付き合った、などと言う「期間」など、恋愛体験の評価に関係ないのは、ひとつの会社に最低3年岩の上でも座っていなければダメ人間と評価されると言われた昭和の価値観が、完全に時代遅れなのと全く同じ理屈である。

恋愛も会社も「期間」ではない。どれだけ美味しく戴いたか。健全な脳みそにとってはこれが最も肝心である。

あー美味しかった。もっと食べたい。でもやめとこう。

それくらいで気持ちよく潔く箸を置くことができるような、そういう恋愛が令和のトレンドである。就職も。

承認欲求を満たす道具としてのお金

なんでもいいから金が欲しい。金を儲けたい。

そう言って娼年の面接を受けにくる病人が一定数いるが、娼年は健全さが売りである。だというのに、なんでもいいから金持ちになりたいというのは、いかにも歪んでおり、健全じゃ無い。精神科医に言わせれば病的である。

堀江貴文も本に書いている、しかもずいぶん前に。

金持ちになってキミはどうするの?

的を得たタイトルである。稼げない男、貧困男の典型的な考え方である。高須クリニック高須克弥氏は、そう言う男は絶対に金持ちになれないと断言している。よく覚えておきなさい。

そして精神科医としてずばり言う。そう言う病的男は、無闇に金を持つことで、不足している自信を補填しようとしているのである。金を持てば、周りが無闇にチヤホヤしてくれる、注目してくれる、尊敬してくれると思っているのである。

ちやほやされたい。
誉められたい。

尊敬されるどころか劣悪教育の失敗作と思われる。これが健全な社会というものである。しかし類友の法則を思い出してくれればわかるように、そういう連中の周りにはそういう連中しかいないので、そういう連中の中では、無闇に金さえ持てば、無闇に周りがチヤホヤするのである。そういう病的社会にそいつらは所属しているというだけの話だ。

肥大した自我意識を制御できず、自分を認めてもらうことばかり考えるようになり、選択や判断の基準がそれだけになる。

既に大金を稼いでいても、これまで何人の有名人が、この論理で逮捕されたり、精神科閉鎖病棟に入院する羽目になったか。槇原敬之然り、清原和博然りである。

恋愛で身を滅ぼす女③

しかし、一応父に相談してみることにした。というのは、相談したらどういう回答が返ってくるか、する前にわかっていたからだ。

他人のプライバシーに首を突っ込むんじゃない。

必ずそう言われると判っていた。そしてやっぱりそう言われた。確かにそうよね。今の私でも相談されればそう答える。恋愛で自滅しようが大学に落ちようが、それはその人の勝手である。人は必ず、自力で人生を生き抜くのに必要な失敗経験をしなければならない時がある。その時の彼女はまさにその真っ最中だったのだ。

介入するのはやめよう。私は心に決めた。そうだ。失敗こそ学習に必要な体験なんだ。それを奪おうなんて、私もどうかしていた。

そう心に決めると、すっと気持ちが楽になった。あれ、なんか調子いい。勉強も捗る。実はその時、私も彼女の愛の嵐に巻き込まれていたのだと気づいた。

結局、サキは一浪した。

でも、今覚えば、一浪なんて、どうってことないものである。それより、一浪するほど価値のある体験をその時したかどうか。そこが重要だ。恋愛をするには、健全な自己肯定感の成熟が必要であることを、後に私はサキと話し合えるようになった。彼女は己の自己肯定感の未熟さに気づき、それこそそっちの方を優先する勢いでラストスパートを図った。というのは、自己肯定感の成熟のタイムリミットは思春期の終わりだからである。

自己肯定感の成熟に「先ず」必要なのは、毎日必ずをひたすら継続することである。とにかく毎日。そして毎日が自然になってきたらだんだんと負荷を上げていく。ちょっと無理かも。と思えるくらいの負荷をじりっじりッとあげていくのだ。

そして「次に」必要なのは、そもそも健全な成熟を遂げた自己肯定感の持ち主との人間関係を深めることである。私は相撲部の彼に頼んで、ともだちを紹介してもらい、厳選に厳選を重ね、前田君という男の子を推薦した。これは恋愛相手としてではなく、あくまで自己肯定感の健全な成熟のお手伝いという目的で、と建前を説明したが、実は良い関係が築けそうな男の子だと私が確信したというのもある。とんだお節介なのだが。